律令制度の条里制による郷(里)の中心地で、地域の中で早くから水田が開かれ、人家も集中した地域の中心を示す名称です(五戸を以て一保、十保を以て一里(郷)とする尺度の標準的郷のこと)。また、いたち川流域の地は、700年ころには相模国鎌倉郡尺度郷(さかどごう)に属していました。平安時代には、柏尾川流域一帯の広大な荘園となり、本郷の地は「山内本郷」と呼ばれていました。本郷は、「新編相模国風土寄記稿」巻百・鎌倉郡山内庄上之村の条に 「上之村「加美之牟良」本郷六村(当村、及び中之村、鍛冶ヶ谷、小菅ヶ谷、桂、公田の六村)の一なり、江戸より行程十二里余、古は本郷を以て闔称(こうしょう)とす、其名古書に往往見えたり(証菩提寺蔵、文保元年(1317)建武二年(1335)の文書に山内庄本郷、永徳二年(1382)応永ニ七年(1420)の文書に山内本郷と見ゆ、さては山内庄の原村なるべく覚ゆれど、今別に山内村あれば、みだりに是非を弁じ難し今の如く分村せし年代伝はらず、正保(1644~47)の改には今の如く六村に分載す、此地は郷中の東、上の方にあるを以て今の村名を負せしと云」 とあり、江戸時代に上之村(上野=上郷)、中之村(中野)、鍛冶ヶ谷、小菅ヶ谷、桂、公田の本郷六村があって、古くは本郷を以て総称していたことがわかります。 また、天平7年(735)の正倉院文書「相模国封戸祖交易帳」には、 「尺度郷 伍拾戸 田 弐百弐拾伍町捌段弐拾漆歩不輸祖田 伍拾漆町弐段弐百陸拾漆歩見輸祖田 壱珀陸拾捌町伍段壱百弐拾歩祖・弐阡伍百弐拾捌束」 と記されています。尺度郷は尺度の標準的郷であり、封戸(ふご)とは律令制の班田収受法によって公地・公民制が行われていたところのようです。尺度郷には50戸あり、その戸は戸籍上の戸で、当時の1戸の人数は32(男15.5、女16.5)人であり、尺度郷には1600人が住んでいたと思われます。田は、225町8段27歩あったので、郡内の鎌倉郷(125町109歩)より89町7段多く、国内平均より59町も多い豊かな水田地帯と推測されます。 |
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、すぐに諸国の家臣たちが急いで鎌倉に駆け付けられる道(鎌倉道)を作りました。道幅は2mほどの狭さで、道筋も一定ではなかったようです。鎌倉道には「上の道(西の道)」、「中の道(中路)」。「下の道(東の道)」と言われる主要道路があり、そこから武蔵や相模、さらに関東、東北、東海にのびていました。仁治元年(1240)、北条泰時が中の道の新道「山ノ内道路」を作り、大船の離山(はなれやま)から笠間の新橋(にいはし)を渡り、飯島、長沼に至る道が出来ました。鎌倉時代、鼬川(いたちがわ)は出立川(いでたちがわ)と呼ばれていました。鎌倉の出入りに必ず通った場所が川のほとりにあったためです。現在の笠間十字路付近で、そこに宿駅が出来、室町時代には鎌倉方面の家臣は鎧姿でここにきて軽装に着替えて見送りの人達と出立のお祝いをし、またここでお祝いをして帰っていきました。近くにかかる海里橋も昔は「帰り橋」と呼ばれていました。今も「新宿(にいじゅく)」という地名が残っていますが、山ノ内道路が出来たころに、宿場が新橋の近くにかわったためにこのように呼ばれ、「仲宿」「宿谷戸」などの地名も宿場と関係が深いと思われます。江戸時代に鎌倉道は「鎌倉街道」と呼ばれるようになりました。 「上の道」は、元弘3年(1333)新田義貞鎌倉攻めの進路であり、援軍として千葉貞胤(さだたえ)が進んだのは「下の道」でした。 なお、「中の道」にも「新中の道(山ノ内道路)」があったように、「下の道(弘明寺道)」にも「別の道」もあったようです。 【上の道】 化粧坂(けわいざか)から瀬谷・関戸(多摩市)・武蔵府中から信濃(長野)・善光寺方面に通じています。 【中の道】 巨福呂(こぶくろ)坂から山内、いたち川、花立、柏尾、二俣川、武蔵府中方面、または二子(ふたご)の渡しから奥州古道、荒川(東京)、川口(埼玉)、白河関(白河市)、奥州へ通じ、山内には山内氏が、その先に稲毛氏らが館を構えていました。 【下の道】 花立までは「中の道」と同じ道を辿り、その先、弘明寺、保土ヶ谷、鶴見、多摩川、大井(品川)、浅草、下総(千葉)、常陸(茨城)、勿来の関跡(なこそのせきあと:福島)・奥州と続き、佐々木氏・平子氏が館を構えていました。 |