第15回 駅からDAN歩7 本郷台~港南台
(http://waka.d.dooo.jp/dan/dan2.html)

                              10月21日1版  駅からDAN歩7
令和元年10月23日(水)
【集合】午前10時20分 JR根岸線 本郷台駅 改札前
【予定】JR本郷台駅 → 長光寺 → 春日神社 → 宮ノ前横穴墓(鍛冶ヶ谷市民の森) → 本郷ふじやま公園古民家 → 証菩提寺 → 上郷猿田遺跡 → JR港南台駅

本郷台~港南台コース

DAN本郷台コース

①JR本郷台駅 → ②長光寺 → ③春日神社 → ④宮ノ前横穴墓(鍛冶ヶ谷市民の森) → ⑤本郷ふじやま公園古民家 → ⑥証菩提寺 → ⑦上郷猿田遺跡 → ⑧JR港南台駅

①【JR本郷台駅】(根岸線)
本郷台駅本郷台駅 本郷台駅前看板案内板
本郷台駅は、国鉄根岸線の大船駅までの延長計画により昭和48年(1973)4月に港南台駅と共に開業されました。近年の1日当たりの平均乗車人員は約19,000人です。駅前にはロータリーがあり、バス停やタクシー乗り場、スーパー、駅前商店街、公園などがあります。
駅周辺の昔は水田地帯でしたが、昭和13年に第一海軍燃料廠(ねんりょうしょう)が作られ、軍艦の燃料の研究(石炭に代わるアルコール燃料や山林にある松の根から作った松根油の航空燃料などの研究)が行われました。戦後は米軍に接収され大船PX(軍の売店)の倉庫となりましたが、昭和42年(1967)住民の返還運動により全面返還され、本郷台駅、栄区役所、栄警察署、栄消防署、柏陽高校、本郷中学校、市営団地などの各種施設が敷設されました。

②【長光寺】(浄土真宗西本願寺派)本堂は工事中
長光寺長光寺 長光寺案内板
長光寺は、昔の鎌倉道沿いの高台にあります。文治年間(1185-1189)に伊豆の豪族伊東祐親(すけちか)の孫祐光(すけみつ)の創建と言われています。伊豆に流されて伊東家に身を寄せた文覚(もんがく)上人から、源頼朝の健康と安全を祈願して彫った薬師如来像を贈られ、小菅ヶ谷に一宇を開き「東照山医王院」を開いたのが始まりで、当時は天台宗の寺でした。その後、本願寺三世の覚如上人の時代に天台宗から浄土真宗に改宗し、「長光寺」の寺号を授けられました。長光寺の本尊の阿弥陀如来像は「上品下生印(じょうぼんげしょう)」のお姿です。祐光が伊豆からもってきたという「花立薬師」と呼ばれる約20cmの木彫の薬師如来像は立派な厨子に納められその台座に徳川家の葵の門がつけられており、これは徳川家康が慶長年間(1596-1614)に鷹狩りでこの辺りに訪れた際に鷹が逃げて大木のこずえにとまっていたところを家康が合掌すると鷹は不思議に家康の手に戻ったことから、家康は薬師堂の野辺の花を摘んで薬師如来に手向けたことから「花立薬師」と呼ばれるようになったということです。ほかに古文書や伝親鸞作聖徳太子像、樹齢300年以上というクロガネモチの『なんじゃもんじゃ』の木(横浜市の名木・古木と指定されています)があります。なお、浄土真宗は一向宗とも呼ばれ、永禄年間(1558-1569)甲斐の武田と小田原北条の対立抗争に巻き込まれ、北条早雲の子氏綱は領内に一向一揆が起きるのを恐れ、浄土真宗を弾圧し浄土宗に改宗するよう強制し、小田原北条の兵は本郷の浄土真宗のお寺を徹底的に破壊しました。このため、長光寺は荒れ果て苦難の道を辿りましたが、文禄元年(1592)、僧淳海(じゅんかい)は門徒一同の協力を得て再建を果たしました。

③【春日神社】御祭紳:天児屋根神(あめのこやねのかみ)、武甕槌神(たけみかつちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、比売神(ひめのかみ)
春日神社入口鳥居春日神社 春日神社本殿本殿 春日神社案内板案内板
平安時代に山内首藤(やまのうちすどう)氏が創建し、古くは本郷六ケ村の総鎮守(小菅ヶ谷、桂、公田、鍛冶ヶ谷、上郷、中野)であった、と伝えられています。山内首藤氏は源氏と深い関係を持っていましたが、源頼朝が平氏打倒のため石橋山に挙兵した時に、首藤氏の頭領であった経俊が曖昧な行動をとったため源頼朝の敗走の原因となり、後に頼朝が鎌倉幕府を開いた際には、首藤経俊の領地がすべて没収され、山ノ内荘は和田義盛の所領となり、次いで北条執権家の私領となり山内首藤氏も没落し、春日神社も衰退して、末社であった白山神社が本郷の総鎮守にとって代わった時期もありました。なお、春日神社の社殿は、春日大社本来の「春日造り」でなく、「権現造り」であり、拝殿は「入母屋造り」の瓦ぶきで作られています。覆屋(ふくおく)ののぞき窓から、江戸時代末といわれる見事な彫刻が四面を飾っている「中宮」と呼ぱれる本殿を見ることができます。正面上部には一絃琴を抱く女神像(春日大明神)が彫られています。背面中央部には夫婦神の経津主神と比売神とみられる男女二神が彫り込まれています。背面上部には鳥を刻んで天を、下部に亀を刻んで地をあらわし天地の妙を表現しています。なお、神社入口の石造の鳥居も「春日鳥居」ではありません。入口鳥居の横に庚申塔があり、六十年に一度の庚(さる)申(さる)の日に人間の体内に住む三尸虫(さんしちゅう)が抜け出して天帝に報告に行くのを防ぐため、寝ないで行をする古い民衆の信仰です。中国の道教に由来した庚申信仰に基づくもので、庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いようです。

④【宮ノ前横穴墓】(鍛冶ヶ谷市民の森)
宮ノ前横穴墓横穴墓 宮ノ前横穴墓案内板案内板 宮ノ前横穴墓状況
横穴墓(よこあなぼ)とは古墳時代後期を中心としたの埋葬方法の一つで、崖面や斜面に横穴を穿(うが)って死者を埋納する施設(お墓)のことです。横穴墓は、九州地方の北部で5世紀のものが発掘され、6世紀中ごろのものが近畿・中部地方、6世紀後半のものが関東・東北へと伝搬してきたものと言われています。「宮ノ前横穴墓群」の遺跡は、6世紀中ごろから8世紀初期にかけて作られ、5群25基の横穴墓から構成されています。形状には、アーチ型・ドーム型・切妻型(家型)などがありますが、鎌倉周辺ではアーチ型に属するものが多く、奥で幅高さとも最大で、入り口に向かって幅と高さが減じています。この横穴墓は、棺を納める玄室の奥壁に穴を穿って奥に棺室という空間を設けており、この棺室構造は「鍛冶ヶ谷式」と呼ばれていましたが、いたち川地域のみでなく隣接する鎌倉市域に展開していることから、近年は「鎌倉型」と呼ばれています。なお、鎌倉時代以降には、形状が類似する「やぐら」という遺構があり、やぐらとして転用されたものもあるようです。やぐらには、武士と僧侶、商人などが葬られ、横穴墓には主として群、郷クラスの豪族の長が葬られ、一般庶民は山・海・川などに捨てられていたようです。

⑤【本郷ふじやま公園古民家】(旧小岩井家)
旧小岩井家住宅古民家 旧小岩井家住宅案内板案内板
鍛冶ヶ谷村の名主を務めた小岩井家の長屋門(工事中)と主屋が移築されたものです。小岩井家の長屋門と主屋は江戸時代末期に建てられたものです。主屋は弘化4年(1847)に建てられ、およそ160年余り前の建物であり、式台をつけた座敷が設けられ一般の農家には見られない格式ある作りとなっています。長屋門は、江戸時代の名主屋敷の雰囲気を伝えており、長屋門と主屋との間は、土蔵や小屋(倉庫)が建ち並んでいたと推定されます。この建物は、平成14年(2002)11月に主屋、長屋門とともに横浜市指定有形文化財に指定されました。

⑥【証菩提寺】(高野山真言宗)
証菩提寺証菩提寺 証菩提寺由緒案内板1 証菩提寺案内板2
源頼朝が文治5年(1189)に取り掛かり、建久8年(1197)に創建しました。頼朝が石橋山の旗揚げ(1180)の合戦に敗れた時、若い命をささげて頼朝に尽くした佐那田与一義忠の霊を慰めるために、鎌倉から見て艮(うしとら:丑寅)の方位(北東)の鬼門に当たる山ノ内本郷に寺を構えて「守艮(しゅこん)の寺」としたと言われています。証菩提は、佐那田与一の父の岡崎四郎吉実の法名です。本尊の阿弥陀如来像(上品上生印:じょうぼんじょうしょう)、観音菩薩、勢至菩薩の三尊は国の重要文化財に指定されています。

⑦【上郷猿田遺跡
猿田遺跡発掘模様 遺跡案内板遺跡案内板
昭和58年(1983)、現在の横浜栄高校一帯で、縄文時代(約4000ー3000年前)の竪穴住居跡(海抜約80m)が2戸、多数の縄文式土器が発掘されました。また、7世紀~8世紀の奈良時代の竪穴住居跡が、13戸、および多数の土器(土師器蓋形や須恵器蓋形など)および石器(分銅型、短冊形などの打製石斧、凹石や磨石や石皿など)が発掘されています。また、山手学院南側あたりから、砂鉄から鉄を取り出すときに出る不純物の「金くそ」や、古代の溶鉱炉のあとである「たたら」跡が発見され「上郷深田製鉄遺跡」とされています。現在、これらの遺跡はほとんどが舞岡・上郷線道路の下になっています。

⑧【JR港南台駅
港南台港南台駅
昭和48年(1973)4月に国鉄根岸線 洋光台駅 - 大船駅間の駅として本郷台駅と同時に開業されました。近年の1日当たりの平均乗車人員は約32,000人です。

参考

【京浜東北線と根岸線の違い】
「京浜東北線」とは、大宮~東京~横浜~磯子~大船の列車運転系統を言い、正式名称ではなく愛称(ニックネーム)です。 正式名称は、大宮~東京間が「東北本線」、東京~横浜間が「東海道本線」で、横浜~大船間は「根岸線」です。なお、根岸線は、東海道本線のバイパスになっています。

【本郷の由来】
山内荘本郷 律令制度の条里制による郷(里)の中心地で、地域の中で早くから水田が開かれ、人家も集中した地域の中心を示す名称です(五戸を以て一保、十保を以て一里(郷)とする尺度の標準的郷のこと)。また、いたち川流域の地は、700年ころには相模国鎌倉郡尺度郷(さかどごう)に属していました。平安時代には、柏尾川流域一帯の広大な荘園となり、本郷の地は「山内本郷」と呼ばれていました。本郷は、「新編相模国風土寄記稿」巻百・鎌倉郡山内庄上之村の条に
「上之村「加美之牟良」本郷六村(当村、及び中之村、鍛冶ヶ谷、小菅ヶ谷、桂、公田の六村)の一なり、江戸より行程十二里余、古は本郷を以て闔称(こうしょう)とす、其名古書に往往見えたり(証菩提寺蔵、文保元年(1317)建武二年(1335)の文書に山内庄本郷、永徳二年(1382)応永ニ七年(1420)の文書に山内本郷と見ゆ、さては山内庄の原村なるべく覚ゆれど、今別に山内村あれば、みだりに是非を弁じ難し今の如く分村せし年代伝はらず、正保(1644~47)の改には今の如く六村に分載す、此地は郷中の東、上の方にあるを以て今の村名を負せしと云」
とあり、江戸時代に上之村(上野=上郷)、中之村(中野)、鍛冶ヶ谷、小菅ヶ谷、桂、公田の本郷六村があって、古くは本郷を以て総称していたことがわかります。
また、天平7年(735)の正倉院文書「相模国封戸祖交易帳」には、
「尺度郷 伍拾戸 田 弐百弐拾伍町捌段弐拾漆歩不輸祖田 伍拾漆町弐段弐百陸拾漆歩見輸祖田 壱珀陸拾捌町伍段壱百弐拾歩祖・弐阡伍百弐拾捌束」
と記されています。尺度郷は尺度の標準的郷であり、封戸(ふご)とは律令制の班田収受法によって公地・公民制が行われていたところのようです。尺度郷には50戸あり、その戸は戸籍上の戸で、当時の1戸の人数は32(男15.5、女16.5)人であり、尺度郷には1600人が住んでいたと思われます。田は、225町8段27歩あったので、郡内の鎌倉郷(125町109歩)より89町7段多く、国内平均より59町も多い豊かな水田地帯と推測されます。 

【鎌倉道(かまくらみち)】
鎌倉古道 鎌倉古道3 鎌倉幕府を開いた源頼朝は、すぐに諸国の家臣たちが急いで鎌倉に駆け付けられる道(鎌倉道)を作りました。道幅は2mほどの狭さで、道筋も一定ではなかったようです。鎌倉道には「上の道(西の道)」、「中の道(中路)」。「下の道(東の道)」と言われる主要道路があり、そこから武蔵や相模、さらに関東、東北、東海にのびていました。仁治元年(1240)、北条泰時が中の道の新道「山ノ内道路」を作り、大船の離山(はなれやま)から笠間の新橋(にいはし)を渡り、飯島、長沼に至る道が出来ました。鎌倉時代、鼬川(いたちがわ)は出立川(いでたちがわ)と呼ばれていました。鎌倉の出入りに必ず通った場所が川のほとりにあったためです。現在の笠間十字路付近で、そこに宿駅が出来、室町時代には鎌倉方面の家臣は鎧姿でここにきて軽装に着替えて見送りの人達と出立のお祝いをし、またここでお祝いをして帰っていきました。近くにかかる海里橋も昔は「帰り橋」と呼ばれていました。今も「新宿(にいじゅく)」という地名が残っていますが、山ノ内道路が出来たころに、宿場が新橋の近くにかわったためにこのように呼ばれ、「仲宿」「宿谷戸」などの地名も宿場と関係が深いと思われます。江戸時代に鎌倉道は「鎌倉街道」と呼ばれるようになりました。
「上の道」は、元弘3年(1333)新田義貞鎌倉攻めの進路であり、援軍として千葉貞胤(さだたえ)が進んだのは「下の道」でした。
なお、「中の道」にも「新中の道(山ノ内道路)」があったように、「下の道(弘明寺道)」にも「別の道」もあったようです。

【上の道】
化粧坂(けわいざか)から瀬谷・関戸(多摩市)・武蔵府中から信濃(長野)・善光寺方面に通じています。
【中の道】
巨福呂(こぶくろ)坂から山内、いたち川、花立、柏尾、二俣川、武蔵府中方面、または二子(ふたご)の渡しから奥州古道、荒川(東京)、川口(埼玉)、白河関(白河市)、奥州へ通じ、山内には山内氏が、その先に稲毛氏らが館を構えていました。
【下の道】
花立までは「中の道」と同じ道を辿り、その先、弘明寺、保土ヶ谷、鶴見、多摩川、大井(品川)、浅草、下総(千葉)、常陸(茨城)、勿来の関跡(なこそのせきあと:福島)・奥州と続き、佐々木氏・平子氏が館を構えていました。

いたち(鼬)川】鎌倉時代は、出立川(いでたちがわ)と呼ばれました。
いたち川いたち川 いたち川兼好法師の歌
吉田兼好「いかにわが たちにし日より ちりのきて 風(かぜ)だに閨(ねや)を はらはざるらん」

いたち川(いたちがわ)は、神奈川県横浜市栄区を流れる二級河川です。いたち川は、栄区東部の円海山、長倉山、大平山、中道山、網張山等の高地を源とする多くの清流を集めて流れており、延長7.18kmで、栄区飯島町で柏尾川に合流しています。いたち川に架かる橋
いたち川の地は、当時の交通上・戦略上の要地であり尺度本郷以来の穀倉地帯として、鎌倉幕府を支えていたと考えられます。
「徒然草」の作者 吉田兼好が出立川のほとりの宿駅から旅立つときに詠んだ歌と伝えられている一首です。各節のはじめの文字を取ってつづると「いたちかは」になります。すぐれた文人であった兼好法師は、川の名の面白さに心を動かして、その五字を読み込んだと言われます。また、源頼朝・政子夫妻、頼家・実朝の将軍、北条一族、西行および徳川家康など多くの人達がこの地域一帯を、馬や徒歩で通行したり狩猟に来たり遊覧に来たと言われています。

【阿弥陀如来の印相】(九品(くほん):九つのランク)
証菩提寺の本尊も三尊も「上品上生(じょうぼんじょうしょう:最高位)」ですが、長光寺の本尊は「上品下生(じょうぼんげしょう)」です。
 上品:拇指(ぼし:親指)につける指が食指(しょくし:人差指)、中品:拇指につける指が中指、下品:拇指につける指が無名指(むめいし:薬指)
 上生印(心の安定を示す弥陀定印)、中生印(説法印)、下生印(来迎印)
印相上品上生の印 印相九品の印相
浄土真宗では来迎を頼みにするのでなく、阿弥陀如来の優れた力を与えられる回向(えこう)によって信心が起こり浄土に生まれて即座に成仏するという教え(念仏を唱えれば浄土に生まれて成仏すると約束される他力本願の教え)なので、来迎仏を本尊とはしません。

【神社の鳥居、本殿造り】
笠木(かさぎ)、額束(がくそく、がくづか)、楔(くさび)、貫(ぬき)、島木(しまぎ)
黒木鳥居、神明鳥居、春日鳥居、八幡鳥居、鹿島鳥居、明神鳥居
鳥居鳥居
神明造り、大社造り、流造り、春日造り、八幡造り、権現造り
造り造り1 造り造り2

参考文献
[1]本郷郷土史研究会、”本郷のお寺とお宮” (本郷郷土史研究会:1983)
[2]栄の歴史編集委員会、”栄の歴史” (横浜市栄区役所地域振興課:2013)
[3]栄区郷土史ハンドブック編集委員会、”栄区郷土史ハンドブック” (横浜市栄区役所地域振興課:2015)
[4]横浜市栄区わが町自慢 横浜市栄区役所
本郷台コース関連地図