小菅ヶ谷の石造物

【令和元(2019)年12月13日更新】
番号所在地
(緯度、経度) 
名称 形態・寸法(H×W×D) 年代 刻銘(建立者)・(主文) 写真 台帳 
1小菅ヶ谷3-57
 (春日神社前)
(35.371337, 139.554742) 
「小菅ヶ谷」の標識塔     昭和58年3月  小菅ヶ谷
戸塚区役所本郷支所本郷郷土史研究会
小さい谷の「スガウ」が、越ヶ谷が転化したといわれるが、鎌倉時代にはすでにこの地名があった  
    
2 小菅ヶ谷3-57
 (春日神社前)
(35.371337, 139.554742) 
庚申塔三角頂角柱碑  万延元年五月□日(1860)         
3 小菅ヶ谷3-57
 (春日神社前)
(35.371337, 139.554742) 
庚申塔  正徳三癸巳年十一月吉日(1713)  青面金剛像      
4小菅ヶ谷4-13
 (赤坂交差点)
(35.376963, 139.552208) 
鎌倉古道木曾の石仏     享保十乙巳年五月二十一日 (1725)   この石仏は旧鎌倉道の木曾と赤坂の境の辻に行路の安全を願って安置されたもの 風化が著しいが地蔵菩薩一体と如意輪観音又は聖観音一体であり造像年代は江戸元禄頃と推定される 又土地の性質から道祖神の役割も果たしていた 尚称蓮杜然誉願生大徳の碑は浄土宗の供養塔である  
  
16の地蔵塔、17の如意輪観音塔、18の聖観音は風化が激しく地蔵像の後ろに設置されているようである  
5小菅ヶ谷4-13
 (赤坂交差点)
(35.376963, 139.552208) 
供養塔  笠付角柱碑
首部:10×18(径)
塔身部:55.5×26.5×26.5
台部:14×48.5×47  
享保十乙巳年五月二十一日 (1725)   称蓮杜然誉願生大徳    19  
6小菅ヶ谷4-13
 (赤坂交差点)
(35.376963, 139.552208)  
地蔵像           16入替  
7小菅ヶ谷4-13
 (赤坂交差点)
(35.376963, 139.552208)  
地蔵像           17入替  
8小菅ヶ谷4-13
 (赤坂交差点)
(35.376963, 139.552208)  
地蔵像           18入替  
9小菅ヶ谷4-13
 (赤坂交差点)
(35.376963, 139.552208)  
力石             
10小菅ヶ谷4-23
(藤和マンション)
 (35.371333, 139.554750) 
渡戸庚申塔道祖神塔    「渡戸庚申塔道祖神塔」
「庚申供養塔(庚申塔)
 元文三午年(一七三八)
  八月二十八日
庚申供養塔(庚申塔)
 万延元庚申(一八六〇)
  九月吉日
道陸神塔(道祖神塔)
 天保十二丑年(一八四一)
  八月吉日
栄区小菅ヶ谷町八二九より遷座
平成十二年十二月吉日
      下組講中一同」  

  
  
11小菅ヶ谷4-23
(藤和マンション)
 (35.371333, 139.554750) 
庚申供養塔三角頂角柱碑
塔身部:60×24.5×17
台部:16×37.5×29  
万延元庚申九月吉日(1860)   (台正)
 田中□・同□・同 □・□・□・川口□
(正)
 庚申供養塔   
  3
市23(小菅ヶ谷町829より移動)  
12小菅ヶ谷4-23
(藤和マンション)
 (35.371333, 139.554750) 
庚申供養塔舟形碑
塔身部:62×25.5×16
台部:16.5×36.5×29   
元文三年八月二十八日(1738)   (台正)
 半左エ門・□八与右エ門・□右エ門 八左エ門・又兵衛
(正)
庚申供養塔 (一猿)
  4
市24(小菅ヶ谷町829より移動)  
13小菅ヶ谷4-23
(藤和マンション)
(35.371333, 139.554750) 
道祖神塔三角頂角柱碑
塔身部:27.5×16.5×12
台部:28×22×7  
天保十二丑年八月吉日(1841)  (正)
 道陸神塔   
  2
市22(小菅ヶ谷町829より移動)  
14小菅ヶ谷4-23
(藤和マンション)
 (35.371333, 139.554750) 
渡戸庚申塔道祖神塔          
15 小菅ヶ谷3-63-27
(小菅ヶ谷渡戸第四公園) (35.374119, 139.554258) 
小菅ヶ谷渡戸第四公園石像          
16 小菅ヶ谷3-63-27
(小菅ヶ谷渡戸第四公園) (35.374119, 139.554258) 
小菅ヶ谷渡戸第四公園石地蔵  正保四丁亥年十月三日  光誉浄春禅定門 正保四丁亥年十月三日
 四の字の次の字が不明ですが、正保四年(一六四七年)は、ひのとい、の年ですので丁亥の二字を入れました。
 嘆誉栄讃禅定尼 慶安三庚寅年正月廿一日
 安の上の字と三の次の字が不明ですが、年号表によると正保の次が慶安ですので慶の一字を、慶安三年(一六五〇年)は、かのえ、とら、の年ですので庚の一字を入れました。又ご戒名も判然としておりませんが、小菅ヶ谷、大誓寺にのこる過去帳の、廿一日の欄の古い多くの御戒名の最初に記されております。
 施主田中とありますが田村家の旧姓は田中で、明治時代田村に改姓したと聞いており田村家の遠い先祖です。県下で二番目に古い石地蔵と云われており、前山のやぐらに昔からありましたのを、平成九年三月にここに移しました。
    平成九年三月吉日 施主 田村三郎 リカ子 
    
17 小菅ケ谷4-13
(西谷戸稲荷)
(35.377494, 139.551519)
        
18 小菅ケ谷4-13
(西谷戸稲荷)
(35.377494, 139.551519)
          
19 小菅ケ谷4-13
(西谷戸稲荷)
(35.377494, 139.551519)
          
20 小菅ケ谷4-13
(西谷戸稲荷)
(35.377494, 139.551519)
          
21 小菅ヶ谷1-31
(新橋際公園)
(35.362901, 139.540873)
庚申供養塔 尖頂角柱碑
塔身部:85×30×24
台部:8×51×47  
(右)
元禄四辛未天八月七日(1691)  
(正)  従是とつか道
   左 とつかミち
(左) 奉像造立庚申供養
   同行 八人
(右) 従是ぐミやうじ道
   右□じ□
(左) 同 行
   奉造立庚申供養
   八 人   
  25
市42  
22 小菅ヶ谷1-31
(新橋際公園)
(35.362901, 139.540873)
延命地蔵尊 地蔵像
塔身部:94×38×26.5   
      35  
23 小菅ケ谷1-15
(和田)
(35.365856, 139.547482)
二十三夜塔           
24 小菅ケ谷1-15
(和田)
(35.365856, 139.547482)
           
25 小菅ケ谷1-15
(和田)
(35.365856, 139.547482)
           
26 小菅ケ谷1-24
(七石ガード際)
(35.366778, 139.545792) 
延命地蔵(左手に錫杖、右手に宝珠) 舟形碑
塔身部:66×27×18
台部:15.5×39×28  
文化十二年七月二十四日(1815)  (台正) 奉像造立
施主 茨木
(正) (地蔵菩薩像)   
  24
市41  
27             
             

小菅ヶ谷村に関する記述

皇国地誌 鎌倉郡小菅谷村誌
209 210 211  213 214 215

新編相模国風土記稿 巻之百 村里部 鎌倉郡巻之三十二

<皇国地誌>
 村誌
<相模国鎌倉郡小菅谷(コスガヤ)村>
 鎌倉郡は昔から鎌倉郡に属し、鎌倉小坂郷(谷七(ヤツシチ)郷の一つ)の中にあり、その後東の山之内荘本郷の中に属しました。(以上はともに年暦不詳で、本郷は本村及び鍛冶ヶ谷、桂、公田、上野(現上郷)六ヶ村の総称です)その後、年暦不詳ですが、各村が合体して一村となりました。
<区域>
 北:山上の通路により鎌倉郡舞岡(マイオカ)、永谷(ナガヤ)、上野庭(カミノバ)の三村と界していました。
 東:山上を境に鎌倉郡鍛冶ヶ谷村に接していた。
 東南隅:鎌倉郡中野村の飛び地に連なっていました。
 南:鎌倉郡桂、公田の両村と堺していました。
 西南隅:㹨(いたち)川により、鎌倉郡笠間村と分界していました。
 西:鎌倉郡飯島村に隣接していました。
 西北隅:鎌倉郡下倉田村と界していました。
<幅員>
 東西:442間(803.6m)
 南北:1260間(2290.7m)
<管轄沿革>
 古代の事は詳細にはわからないが、文武天皇(在位697-707年)の時から聖武天皇(在位724-749年)の神亀年間(724-749年)に至るまで、染屋時忠(藤原鎌足の玄孫)は、鎌倉に居住し、東国八ヶ国の総追捕使(そうついぶし:総令外官)となり東北地方を安定させました。その後、上総介の平直方もまた鎌倉に住みました。永承期間(1046-1053年)に源頼義が相模守であった時に、平直方の婿となって子供の義家を生みました。
 それ以来、源義家の代々の地となりました。(「詞林采葉抄」を参照)以降、平治元年(1159年)まで源義頼が生計を立てる場所になりました。治承四年(1180年)、その子頼朝幕府を鎌倉に開いて以来、幕府の数代に亙る所領となりました。元弘三年(1333年)、一旦朝廷に返しましたが、建武二年(1336年)足利尊氏が反旗して鎌倉に攻め入り、正平四年(1350年)尊氏の子の基氏がここに鎮を置き東国地方を支配しました。その後、数世代にわたり管領家の領地となりました。これが衰えて、山之内上杉氏に移り、また扇谷上杉氏に移って後、三浦義同の所領になりました。

鎌倉郡小菅谷村誌

101 102 103

○小菅ヶ谷村(古須我也牟良とも書く)

江戸より12里(47.124km)の行程であり、本郷六ヶ村の1つである。("上之村"の項に記述あり)
北條泰時の女を小菅ヶ谷殿と呼んでいた事は、上之村(上郷町)の証菩提寺【年中行事記】に書いてあり、

長光寺に関する文書

長光寺

戻る